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2016.05
日なたの学校と日陰の学習塾、それぞれの役割。
突然ですが問題です。
(中1理科)校庭周辺でタンポポを観察したところ、生えているタンポポの大きさがちがうことに気がついた。
日かげに生えていたタンポポは、ア・イのどちらか。記号で答えよ。
これ、ほとんどの生徒は「イ」と答えます。
その子たちに理由を聞くと、「日当たりが悪いと育ちにくいから」と答えます。
なるほど。
日当たりが悪いところにいる生物って、なんだか「不健康」な感じするもんね。
でも、正解は「ア」です。
日なたの植物は、そんなにがんばって大きな葉を広げなくても十分な日光を得ることができます。
でも、日陰の植物は
もっとくれー
もっとくれー
と、わずかな日光を少しでも多く得るために葉を広げるんです。
「学校」を日なたの教育と位置付けるなら、
「学習塾」は日陰の教育。
塾の授業が行われる時間帯は、学校が終わった後の夕方から夜。
休日の場合は明るい時間から始まることもあるけれど、基本的には夜行性。
日没が近づくと動き出します。
それに講師もいろいろ。
大学生のアルバイト講師もいますし、正社員であっても教職課程を受けていなかったり、教員免許がなかったりする塾講師はごまんといます。
公的機関はもちろん、第三者が正式に認めたわけではない人たち。
それでも正社員は「プロ」と名乗り、生徒や保護者から「先生」と呼ばれます。
一言でいうと “もぐり” です。
やはり日のあたる場所ではなく、日陰で動き回るのがふさわしいのかもしれません。
調子にのんなよ塾講師!
あ。僕、塾講師でした。
すみません。
決して同業者の皆さんを侮辱しているわけではありません。ユーモアわかってください。苦笑
ボロカス言っていますが、これらは別に違法ではありません。
学習塾講師には、公的に取得が義務付けられているような資格がないからです。
それに、手塚治虫さんの描いた“もぐりの医者”ブラックジャックではありませんが、現実世界にも、教員資格はなくても子どもたちの成績を伸ばし、子どもたちの人格形成に素晴らしい影響を与える塾の講師はたくさんいます。
実際、多くの子どもたちは、学校ではなく、塾に頼って学力を伸ばします。
それはあたかも、「日なたの植物より、日陰にある植物の方が大きく育つ」という自然界の様子に重なるかのようです。
賛否が分かれそうなことを口走りましたね。
僕は学校を批判しているわけではないのです。
なぜなら、塾と学校ではその存在理由が異なるからです。
「教育」に免許は必要ない。
今時「得点を取ること」だけを目的にしている学習塾など存在しているのでしょうか。
「塾では、ただ机に向かい黙々とプリントを解く。響き渡るのはカリカリという鉛筆の音だけ。」
こういうのは一部の企業がイラストを駆使した販促グッズで作り上げた幻想だと思っています。
印象操作も甚だしい。(◎`ε´◎ )ブゥーー!
どんな塾もだいたい「教育理念」を持っていて、それをホームページやチラシに載せています。
ほとんどの塾がその教育理念の中で、「人間形成」に寄与しようとしています。
学習塾カレッジも、「人を思いやる心、だれかのために行動できる人間の育成」を教育理念とし、ホームページにもチラシにも掲載しています。→「教育理念を教えてください」
無免許の輩どもが何を偉そうにと鼻で笑いますか?
免許がなければ人間の育成に携われないというなら、世界中の親に免許の取得を義務付けなければいけませんね。
免許の有無など関係ないのです。
たしかに何様だと思われるかもしれません。
自分さえ未熟な人間のくせに、そんな人間が人様を育てようというのですから。
しかしそれも、免許の話同様に、完璧な人間でなければ人を教育できないというのであれば、この世に教師などいなくなってしまいます。
子どもたちに対面する身近な大人の一人として、一人前に社会に飛び出していける礎を築いてあげたい。
そんなひたむきな思いで、教室を走り回って汗を流し、声をからすことは滑稽でしょうか。
塾業界には、そんな一途に熱い心を持った不器用な人がたくさんいます。
それは、授業のうまいへたではなく、もっと言えば経験年数などに関係なく、アルバイトの学生講師の中にだって、本当に生徒たちのために情熱を傾けて日々教壇に立っている人はいます。
僕はそんな塾人の一人であることに誇りを持っています。
学習塾に求められていることは、「学力を伸ばす」こと。
しかし、どんな崇高な理念を掲げようと我々は「学習塾」なのです。
進学塾なら成績を上げ志望校合格へ導く。
補習塾ならできないところを分かるようにしてやる。
「勉強はできるようにならないけど人間的には成長できます」では、もはや本末転倒。
学習塾の看板は下ろすべきでしょう。(と、自戒をこめて言ってみる。)
学習塾に求められていることは、「学力を伸ばす」こと。
それに答えるために、学習塾は存在しているといえるでしょう。
学校は社会性を育む場
さて、話がだいぶ遠回りしてしまいましたが、話を戻します。
“多くの子どもたちは、学校ではなく、塾に頼って学力を伸ばします。
それはあたかも、「日なたの植物より、日陰にある植物の方が大きく育つ」という自然界の様子に重なるかのようです。”
繰り返しになりますが、僕はその理由を「塾と学校では存在理由が違うからだ」と書きました。
塾は「学力を伸ばす」ために存在しています。
では学校は?
学校は学力を伸ばすために存在しているわけではないですよね。
あ、誤解しないでください。
僕は、学校が勉強をする場所ではないと言っているのではありません。
学校は「学力を伸ばす」ことをメインにしているのではない、と言っているのです。
学校と塾。
塾では到底学校に及ばない圧倒的な「差」は何か。
それは、「時間」と「人数」です。
学校は、毎日、朝から夕方まであります。
時間があるからこそ、実験や見学、観察などじっくり「体験」して学ぶことができます。
そして、人数。
学校には規模や地域によっての差はあると思いますが、学校にはたくさんの「人」がいます。
集団生活の中で対人関係を学んだり問題解決の知恵を培ったり、団体行動の中で、「妥協」を学ぶことも大切なことかもしれません。(「妥協」はあまりいいことではないかもしれませんが社会生活を営む上では時にそれも必要不可欠なことですよね…?)
気の合う人ばかりではないというのも社会に出てからの免疫づくりであるように思えます。
それに、時刻や提出物の期限を守るなど、学校では小さなことからさまざまな社会性を身につけていきます。
つまり、学校は子どもたちが社会に出ていくためのさまざまな準備をする場だといえるのではないでしょうか。
学校は「日なた」の存在です。
社会性を育むという大きな光を照らす役割を担っています。
塾はその中の「勉強」というほんの一部分について特化した存在なのです。
一部分に絞っているから、塾の方が「学力を伸ばす」ことについては長けているのでしょう。
勉強以外の理由であれば、学校に行かないという選択肢があってもいい。
これらは僕の個人的な見解ではありますが、おそらく「学校は勉強のためだけに存在しているわけではない」という部分は疑う余地のなく確かなことだと思います。
だから、“勉強”を理由に「学校の授業なんか受けても意味がない」と学校に行かないことには賛成できません。
学校では勉強以外にもたくさんのこと(なんだかんだと社会性に通じること)を学ぶことができるからです。
でも、勉強以外の理由、例えばいじめだとか先生とのトラブルとか、それは程度によっては学校に行かないという選択もあっていいと思います。
社会に出たら、さまざまな人と接することになります。
当然、自分と同じ感性、価値観の人ばかりではありません。
だから、学校などの集団生活を営む場で、少しずつそういったさまざまな人たちとどのように付き合っていくのか学んでいくことは大切な「準備」だと思います。
しかし、程度が行き過ぎると「心の傷」がやがて社会に出ることすら拒むようになるかもしれません。
だから、一辺倒に「学校は行くもの」と決めつける必要はないのです。
学校以外にも、さまざまな「選択」ができる時代です。
社会もまた一つではありません。
さまざまなコミュニティが生まれています。
自分は学校から「逃げ出した」などと考えず、自分はちがう道を「選択した」と考えて進めば気持ちも前向きになれるのではないでしょうか。
学校に行くのをやめて、大人になってもトラブルが絶えなかったエジソンの話。
過去に生徒と話した例を紹介します。
彼は知識量も同学年の子たちに比べて多く、優秀でよくしゃべる子でした。
「先生、学校の授業ほんとにだるいんですよ。やたら進むのが遅いし、塾でもっとわかりやすく教えてもらってるからほんとに無駄。」
僕に限らず塾の講師をしている人は、子どもたちから学校の授業に対する批判的な声を聞くことが一度や二度ではないと思います。
その子もその一人であり、ちょいちょい塾を「持ち上げる」発言を混ぜ込むところから、多少僕へのご機嫌伺い的な感覚でしゃべっているのかなとも思いました。
しかし、彼はけっこう真剣に「学校の授業は無駄」を繰り返し、しまいには「学校を休んで塾で自習をしていたい」と言い出しました。
たまに入試直前期にそのようなことをする子がいましたが、彼は受験学年でもなく平常の期間にそうしたいと言うのです。
「学校はちゃんと行きなさいよ」
僕は結論だけを言いました。
「でも先生、エジソンは学校やめちゃったんでしょ?学校なんか行かなくたってすごい人いるじゃん。」
当時中1(中2?)だった彼なりに意見の「根拠」を示して大人と話す姿勢に感心しました。
彼が真剣に話しているので、僕も子ども扱いしないでちゃんと話しました。
「エジソンはいくつかの発達障害があったと言われていて、『なぜ?』という気持ちをコントロールできず学校の集団生活になじめなかった。幸いなことにお母さんが家庭教師になってエジソンの『なぜ』を解決してくれたよね。でも、エジソンは大人になってやはり対人関係がうまくいかず悩んだとも言われているよ。」
「そうなの?」
彼が興味を示したので、エジソンの電流戦争の話やエジソンが起こしたたくさんの訴訟の話を付け加えました。
「エジソンは自分の好奇心を満たしてくれない学校なんかより、お母さんに教えてもらえて幸せだったと感じていると思う。
でも、これは僕の勝手な想像だけど、エジソンも通えるなら学校に通いたかったんじゃないのかな?
いろんないざこざは、学校に行けなかったことのコンプレックスからきてるとも言われているし。。。」
そして僕は「学校は勉強のためだけに存在しているんじゃないよ」という話をしました。
「外国には『飛び級』っていって優秀な子は学年をどんどん進めて学ばせてあげるっていう仕組みもある。
それのいいところも分かるけど、正直僕はその優れた頭脳の持ち主は勉強以外のことをきちんと学んでいるの?と思っちゃったりもする。」
話はどんどん脱線していき、このあたりから何を話したかあまり覚えていないのですが、最終的には彼の好きな子の話にまで発展し、その好きな子に「コクります!」という結論に落ち着いた記憶が。笑
それではまた。
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