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2025.05
努力しすぎはブラック教育?──労働基準法はあるのに、勉強基準法がない理由
皆の背には、常にこの西川がついていますよ
これは、前回の附属中カレッジテストのようすです。
5教科のテストが終わると、テスト中の緊張感とは打って変わり、さすがに一つ肩の荷が下りたように一様にほっとした表情を浮かべていました。
それもそのはず。学校のテスト本番1週間前に、すべての学校提出課題をやり終えてチェックを受けることになっているカレッジテスト。ここ数日は、かなり大変な日々を過ごしていたことと思います。
しかし、当然のことながらこれがゴールではなく、むしろ、ここからの残り1週間が本当の正念場です。多少の無理は承知の上で、体に鞭を打って頑張ってほしい──
帰りの準備、そして翌日以降のテスト対策の予定などの連絡事項をすませたあと、僕は彼らのここまでの努力を理解した上で、あえてここで緩むな、さらに頑張れと檄を飛ばすことにしました。
この数日前に、動画配信サービスで『キングダム ―大将軍の帰還―』をみた僕は、去年の夏、映画館でみたときの感動と興奮が全身に宿っていましたので、気分は完全に王騎将軍です。←影響されやすいw
「働く大人たちには労働基準法があるけど、君たちには勉強基準法なんてない!どれだけ勉強しても、誰にも制限されることはないんです。皆さんには鬼のように勉強してもらいますよ!!」
オオオ オオオ
・・・とは、
なりませんでした。
まだまだ大将軍への道は遠いようです。笑
しかし、多くの子が、それくらいの気持ちで臨まなければいけないことをすでに覚悟していたのでしょう。
「オオオ」のかわりに、「ぬン~」とか「うシ~」とか、なぞの声を上げるその表情からは「回避できない現実」を受け入れ、前進しようとしてくれている静かな強い意志を感じました。
そしてテスト対策期間中、家に帰ってからも深夜まで勉強を続けた、いわゆる「過労〇ライン」接近組を筆頭に、みんなが労働基準法ならアウトな長時間、真剣に机に向かっていました。
テスト本番の直前日程に実施された1年生のオリエンテーション合宿(学校宿泊行事)も、帰ってきた当日、もともと別の予定があって欠席した子を除いては、一人も休むことなく対策に出席していました。
実はそれ以前にも、中3の修学旅行、中2の自然体験といった宿泊行事があったのですが、いずれもその「帰ってきた日」に、誰ひとりとして授業を休まず出席していました。こうした意識の高さが、上の学年から自然と(←半強制?🤭w)受け継がれていることに、とても大きな意味を感じます。
すべての中学のテストが終わり、提出された成績個票には、それぞれの努力の結晶が確かに宿っていました。
それぞれが「自分史上最大」の努力をしてくれたと、心から思っています。
労働基準法の勉強版「勉強基準法」が存在しない理由
「大人たちには労働基準法があるけど、君たちには勉強基準法なんてない」
もし、あの時の僕の言葉を覚えている子がいたとして、少し冷静になって考えてみると、その言葉は少し乱暴に聞こえるかもしれません。
仕事には「労働基準法」という決まりがあって、働きすぎを制限するルールが存在します。たとえば、1日の労働時間は8時間まで、週に40時間まで── そんなふうに、働く時間に上限が設けられているのです。
でも、勉強には“しすぎ”を制限する法律はありません。
「なんで大人は守られてるのに、僕たちは守ってもらえないんだ?」
この疑問に真面目に答えるなら、「命がかかっているから」と言えると思います。
仕事には長時間拘束、肉体労働、責任、ストレス、人間関係など、命や健康に直接関わる要素があります。
「そんなの僕たちにだってあるぞ。ストレスも感じるし人間関係で悩むこともある!」
そう言うかもしれません。たしかにそうですね、君たちには君たちの世界で踏ん張って乗り越えて生きているのだと思います。
では、責任という点ではどうでしょうか。勉強が苦手でも、学生のうちは何とかなります。少々成績が悪くても、生活が立ちゆかなくなることはまずありません。
でも、社会に出ると話は別です。
仕事ができない、ミスが多い、言われたことしかできない、さらには言われたこともできない── そんな状態が改善されずいつまでも続けば、評価は下がり、お給料にも響き始めます。最悪、職を失うことだってあるのです。家族がいれば、もろともに、生活が成り立たない状況に追い込まれるかもしれません。
まさに、生きるか死ぬかの問題です。
世間では「勉強なんてできなくても生きていける」とよく言われますが、「仕事なんてできなくても生きていける」というのは耳にしたことがありません。「仕事ができない大人」で居続けることの厳しさは、そんな生やさしい話では済まないのです。
だからこそ、学生のうちにちゃんと訓練して「使える頭」にしておくことが、社会に出たあとのリスクを少しでも減らす手段になるのだと思います。
でも、勉強してトレーニングしたから安心かといえば、必ずしもそうとは言い切れません。能力が高ければ高いほど、今度は周囲の期待値もどんどん上がっていきます。つまり、「できる人」ほど、求められるハードルも上がり、責任の重さも増していくのです。
結局のところ、どんな社会人にも、想像以上のプレッシャーがかかっている──。それが「リアル」であり、その重圧にすべての人が耐えられるわけではないからこそ、法律は働く人を守ろうとしてくれているのだと、僕は解釈しています。
働きすぎて命を落とした人は、実在します。「過労死」という言葉があること自体が、その事実を物語っています。一方で、自死を除いて、勉強のしすぎで命を落とした、という話は……少なくとも僕の知る限り、耳にしたことがありません。
それが、世の中で「勉強はどれだけやっても大丈夫」と思われている理由なのかもしれません。そして、労働基準法の“勉強版”とも言えるような「勉強基準法」が存在しない背景なのかもしれません。
だから勉強しなさい?
オラオラ系の西川先生だから、きっとそう言いたいのだろうと思った人もいるでしょう。
知らないかもしれませんが、僕は根が優しいのです。思いやりに満ちています。生徒には「細胞がやさしさでできてる」と言っています。
・・・・・・。
コホン…。もちろん、「勉強基準法も作るべきだ」とは思いません。以前も書いたことがありますが、僕は「教育こそ国力の源」だと本気で信じています。だからこそ、子どもたちには前向きにたくさん勉強してほしいと願っています。
カレッジでは普段からしっかり勉強してもらっていますし、テスト前には小中高問わず、ギアを一段も二段も上げて取り組んでもらっています。
あの日、テストが直前に迫る短期間のターボだったからこそ、僕は「今きついときなのは知ってる。それでも、時間無制限でとにかくやろう」というようなことが言えました。
でも、基本的には大人と同じです。
「心を削るような勉強」だけは、してほしくありません。
勉強は見える。でも、心の疲れは見えにくい。
勉強は、成果が数字で見えるものです。
点数、偏差値、順位、合格実績── そうした「わかりやすい結果」があるからこそ、周囲も応援しやすく、称賛しやすいのだと思います。
その一方で、「数字で見える」ということは、「もっと」や「まだ足りない」と言われやすく、がんばる手を止めづらくなることにもつながっているという側面もあると思います。
たとえ立派な目標があっても、たとえ誰かにほめられるような取り組みをしていても、それが、心の奥では「もう限界かもしれない」と感じながら続けている努力なのであれば、それはもはや「前向きな努力」とは言えません。
大人の世界には、働きすぎを防ぐためのルールがあります。心や体を壊す前に、休むことが許されています。
でも子どもたちは、数字という結果が出ている限り、がんばり続けることが「正しい」とされてしまうことがあるのです。
そして、その「正しさ」が、うまく機能しなくなると、正しいことができない自分に罪悪感のようなものを感じ始め、やがて心をすり減らしてしまうこともあるかもしれません。
仕事のしすぎが命を削ることがあるように、意志のともなわない勉強のしすぎは、心を削ることだってあると思うのです。
だから、僕たちは決して忘れてはいけません。
心だって、命の一部なのだということを。
「心をすり減らす勉強」
子どもたちも「ほら、勉強のしすぎはよくないんだよ」と、切り取りショート動画を見たときの反射的なコメントみたいなことを言い出すかもしれませんが、そういう子にかぎって「しすぎ」というほど勉強していません。笑
くり返しになりますが、僕は、勉強にはとてつもなく大きな価値があると信じています。
知ることは、生きる力になります。考えることは、自分の足で立つための土台になります。学びの先には、今まで見えなかった世界が広がっていて、そこには新しい出会いや可能性が待っています。
そして勉強は、自分自身を信じるための手段でもあるのです。
だからこそ、僕は「勉強そのもの」ではなく、「心をすり減らすような勉強の仕方」に対して、問いを投げかけたいのです。
でもむずかしいですね……。「心をすり減らす勉強って、具体的にはどんなもの?」と聞かれると、正直、僕にもはっきりと答えきれる自信はありません。
たとえば、誰かに押しつけられた理想を追いかけて、気持ちや体調を置き去りにして突っ走るような勉強。「本当は立ち止まりたい」「ちょっと息をつきたい」そんな心の声を聞かぬふりをしてしまうような勉強。
そういったあり方は、やはりどこか、危ういものだと僕は思います。
逆に、自分の意思で決めた目標に向かって、時には給水所で立ち止まりながら、また一歩ずつ努力を続けていく──
その姿には、静かな強さがあり、積み重ねた日々が、やがて確かな力になると僕は信じています。
『愛という名のもとに』
今回のブログを書きながら、トレンディドラマ全盛期だった平成初期の1つのドラマを思い出しました。
お父さんお母さんの中はご記憶にある方もいらっしゃるかもしれません。『愛という名のもとに』というドラマです。このドラマが放送された当時、僕は中学生だったと思いますが、今でも印象に深く残っているシーンを紹介します。
主人公は女性教師(鈴木保奈美)で、超エリート進学校に勤務しています。
担当したクラスの生徒たちは、勉強以外のことに全く興味を持ちません。そのクラスには友情とか団結とかそういうものは、一切何もありませんでした。とにかく高得点、高学歴を獲得することしか考えていないような生徒たちばかりのクラスだったのです。
その女性教師が何を話しても、誰も聞いていないような状況が続いたある日、その教師の大学時代の友人が仕事で悩んで自殺してしまいます。
そして、同級生のことにもまったく関心を示さない生徒たちに、涙ながらに語りかけました。
みんなが、何年かあとに出ていく社会って、辛いことたっくさんあるの。
迷路みたいに、抜け道なんかどこにもなくて。
私たちは結局彼を救ってあげられなかったけど、、、
倒れそうなとき、支えてくれるのって友達しかいないと思うの。
今のみんなは、高速道路をアクセルをめいいっぱい踏んで走ってる。
ブレーキを踏んだら置いていかれるっていう不安で、どんなに眠くても脇目もふらずに、、、
死んじゃうわよ、、、
わたし、ちっぽけなただの教師だから、今の学歴社会止められないよ、、、
だから勉強少しセーブしてなんて、そんなこと言えない。
ただ、一度だけ、たった一度だけ、インターで降りてみてほしいの。周りの景色を見てほしいの。
一緒に走ろう。みんな一緒に、景色を見ながら走ろう。
歩いてもいいの。立ち止まってもいいの。一つのことを、みんなでやったっていう、その積み重ねが、生きる支えになるから。
『愛という名のもとに』11話より
道草をはさみながら、前に進もう。
平安時代の終わりから鎌倉時代の初めにかけて、旅に生きた西行法師の、教科書でもおなじみの和歌にこんな一首があります。
道の辺に 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ
──道ばたに涼やかな清水が流れ、柳がそよぐ木陰。ちょっとひと休みのつもりが、あまりの心地よさについ長居してしまったよ……そんな情景が浮かんできます。
人生という旅路の中でも、こうしてふと足を止め、風を感じる時間があってもいいのかもしれませんね。
それはきっと、前に進むための、必要な立ち止まり、「道草」なのだと思います。
それではまた。
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