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エッセイ「教科書が教えないリアル」

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【創作】約束の鶴 | 学習塾カレッジ塾長 エッセイブログ

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31

2017.08

【創作】約束の鶴

「約束の鶴」

 

 

実家から転送されてきた1枚のはがき。

 

 

「滝川夏美先生 謝恩会開催のお知らせ」

 

 

それは、懐かしい恩師の名前だった。

 

 

よみがえる小学校時代の記憶。

 

 

走り回ったり暴れたりする子が多いやんちゃなクラスだった。

 

 

でも、滝川先生が話し始めると、幼い子が眠りにつく前に母親から絵本を読んでもらっているときのように、不思議と話に引き込まれていった。

 

 

それは、時に胸が躍り、時に心が落ち着き、またある時は情熱的で夢の世界に引き込まれるような話だった。

 

 

そんな滝川先生が定年を迎えることになり、謝恩会を開催することになったとのこと。

 

 

僕は迷わず「出席」に〇をつけた。

 

 

 

会場となったホテルには、先生にお世話になったさまざまな年代の人たちが集まっていた。

 

 

全員が受付でもらった名札を付けている。

 

 

東京に向かう新幹線の中で卒業アルバムを見て同級生の顔と名前を復習した甲斐あって、自分が通っていた小学校名と該当する年度が書かれた札が立つテーブルに近づくと、時の流れを感じさせながらもどこかに面影を残す顔をちらほら見つけることができた。

 

 

「久しぶり!」

 

「・・・・。おぉ~!久しぶり!!」

 

 

こういうかなりの年月が経った再会の場において名札は非常にありがたい。

 

 

声をかけた友人の誰もが、一瞬ちらりと名札を確認してからリアクションする。そんな光景がそこかしこに広がっていた。

 

 

それにしても、すごい人数だ。

 

 

もちろん滝川先生に担任してもらった全員がかけつけたわけではないだろうが、200人は優に超えている。

 

 

先生の前にはものすごい数の人だかりがあり、遠巻きにしか先生の姿を確認することができない。

 

 

 

少し離れたところから先生を見て、先ほどテーブルで再会した友人と

 

「滝川先生って、あんなに小さかったっけ?」

 

と会話した。

 

 

小学生のころは、とても大きくたくましい先生に見えていたが、大人になった自分たちよりはるかに小さく華奢な姿でたたずむ滝川先生が、時の流れをよりいっそう感慨深くさせていた。

 

 

今回の謝恩会を企画した方 ―僕よりはるかに年齢は上に見える― が、司会もされている。

 

 

そこかしこで行われている「久しぶり!」「・・・・。おぉ~!久しぶり!!」という再会の儀式がいっこうに収まらない中、時間通りに謝恩会は始まった。

 

 

滝川先生は、僕らを担当してから数年後に教頭、校長と管理職を経て教育委員会にお勤めになり、その後も後進の教員養成にご尽力されてきたとのことだ。

 

 

まるで結婚式の披露宴のように、思い出の写真がスクリーンに映し出される。

 

遠足などの集合写真が次々と映り、滝川先生がいかに多くの子どもたちを受け持ってきたのか、改めて感嘆の気持ちがこみ上げた。

 

1

 

宴もたけなわになったころ、司会者が話し始めた。

 

 

「さて、滝川先生と言えばやはり “お話” ですよね! 皆さん、久しぶりに聞いてみたくありませんか!? 滝川先生のお話を!」

 

 

会場からは一斉にワッという声と拍手が巻き起こった。

 

 

年代を問わず、今の職業や立場が何であれ、やはり自分たちの先生。

 

 

「あのころ」のように、滝川先生の話に心を奪われたい。

 

 

会場の全員がそう感じているような歓声だった。

 

 

滝川先生は、司会者に手をひかれ壇上に上がった。

 

 

どうやら事前に先生にはこのことを伝えていなかったようで、先生は最初少し照れたような困惑した仕草をしてみせた。

 

 

 

「こんなおばあちゃんになっていて驚いたでしょう(笑)」

 

 

先生はマイクを使って話し始めた。

 

 

たしかに年を取ったが声の調子は「あのころ」のままだった。

 

 

 

そして、何より「あのころ」と同じだったのは、会場に流れるBGMすら聞き取れないほどのざわめきが、滝川先生が話し始めると水を打ったように静かになり、誰もが先生を見つめ何を話してくれるのかと期待の眼差しを向けたことだった。

 

 

—私は、いくつかの小学校を転々としましたが、どの学校でも『卒業制作』に取り組んだことをよく覚えています。

 

「卒業制作」とは、卒業する児童たちが、学年全員で共同制作した作品に「〇〇年度卒業生」と名を刻み、学校に置いていくもののことだ。

 

 

私にとって忘れられない卒業制作の思い出をお話します。

 

 

あれは、A小学校でのことです。多くの皆さんがそうであったように、卒業制作はだいたい1か月くらいで完成させるものです。

 

私は初めて主任をさせてもらった学年の卒業ということもあって、張り切っていたんですね。伝統である卒業制作に、今までにないようなすごいものを作ろうと思い立って、卒業までまだ3か月もある新年早々に準備に取り掛かったのです。

 


作ったもの。

 

それは、折鶴の壁画。

 

 

先生がそれを口にすると、一つのテーブル付近がざわわっと動いた。

 

おそらくA小学校で、その「折鶴の壁画」を担当した学年なのだろう。

 

何やら意味深なざわめきのように感じたが、彼らもすぐに先生の言葉に耳を傾け、それ以上は何も話している様子はなかった。

 

 

 

折り紙の鶴を大量に作って、それを貼り合わせて大きな1つの壁画にするものです。

 

作り始めてから、本当に後悔するぐらい大きなものを企画してしまったものですから、それはそれは何万という折鶴が必要でした。

 

授業を鶴を折る時間に変えたことも何度かありましたが、卒業を控えた3学期だったので、授業をきちんと終えなければいけない焦りもあって本当に大変でした。

 

当時の子たちにも、とってもたくさん作ってもらいましたが、私、自分が発案したものだから責任持たなきゃって、放課後、毎晩毎晩終電に間に合うぎりぎりの時間まで鶴を折っていたんです。

 

その作業は、家に帰ってからも続きました。

 

 

ご存知のように私はずーっと独身で、父は何年も前に先立ち、母と二人暮らしをしていました。

 


ある日、私が疲れて帰ると母が起きていました。

 


お風呂から出て、すぐに鶴を折り始めたとき、私、いい年して大人げなかったんですけど、よほど焦っていたんでしょうね。母に強くあたってしまったんです。

 

「私が今大変なの知ってるでしょ!ずっと家にいるんだから、鶴折るのくらい手伝ってよ!」

 

って。


今思い返してもけっこうな剣幕だったと思います。

 


母は、おびえたように一言だけつぶやきました。

 

 

「鶴は・・・いやよ・・・」

 

 

涙ぐんで奥の寝室に向かった母が気になりつつも、そのときの私は母に声をかけることができませんでした。

 

 

翌朝、教室に行くと子どもたちが教卓の近くで騒いでいました。どうしたのかと聞くと、子どもたちは異口同音に言いました。

 

 

「先生!これすごいね!!」

 

 

私には何のことだか分かりません。

 

うながされるように子どもたちが指差す方を見ると、そこには大量の鶴が置いてありました。

 

 

「まああ!」なんて、私は瞬間的に目に涙がこみあげてくるのを感じながら、喜びの声を上げてしまいました。

 

 

「でもさ、これ何かきたないよね。」

 

ある子がそういうので、よく見てみるとたしかに、少々年季の入った…というか、古く黄ばんだ紙で作られていたのです。

 

 

でも、私は、こんなにたくさん鶴を折ってきてくれた子がいるということが嬉しくて嬉しくて、心の底からお礼を言いたい気持ちになり、「これだれが持ってきてくれたのかな?」って子どもたちに聞きました。

 

 

でも、だれも自分だと名乗り出てはくれませんでした。

 


私は、みんなから鶴が「きたない」と言われたことで名乗り出るのが恥ずかしくなってしまったのかと思い、それ以上は「だれが」と聞くのをやめました。

 

「そっか、じゃあ。だれか分からないけど、本当にありがとう!先生、すごくうれしいよ!」とその場にいた全員に向かって言いました。

 

 

私は、たくさんの鶴を折ってきてくれた子がいるということが、本当に心から嬉しくて、その日はいつもより軽い足取りで家に帰りました。

 

 

家に着くと、その日も遅い時間だったにもかかわらず母が起きていました。

 

 

私は、昨日のことを謝ろう。そして、今日の嬉しかったことを報告しようと母の肩をたたきました。

 

 

ですが、母は振り向きません。

 


様子が変だなと思って母の顔を覗き込みました。

 

 

母の目には、涙がいっぱいに溢れていました。

 

 

おそらくずっと泣いていたのだろうと思えるほどにまぶたが腫れ上がっていたのです。

 

 

「お母さん?」

 

 

私は、よほど昨日の自分の態度が母にショックを与えてしまったんだと思い、深く謝罪と反省を母に伝えました。

 

 

でも母は、「ちがう。そうじゃないよ」と泣きながら繰り返すのです。

 

 

私は、昨日母が言った「鶴は・・・いやよ・・・」という言葉を思い出し、そこに何かがあるのだと直感しました。そして私は思い切って、母に尋ねたのです。

 

 

「お母さん・・・、鶴に、何か思い出があるの?」

 

 

母は泣きじゃくった呼吸を整えるように、ゆっくり息を吸ったり吐いたりしたあと、しばらくして話し始めました。

 

 

母は、母が子どもの時分に、そのとき私が赴任していたA小学校に通っていたことを以前教えてくれたことがありました。

 

 

ただ、当時は戦争中で、母は空襲を避けるため甲府に学童疎開をしていたそうです。

 

 

かねてから、卒業式は東京に戻ってA小学校で執り行いたい。それは、東京に残った家族たちの意思でもあったらしく、学校もその方向で話を進めていたそうです。

 

 

当時から伝統であった「卒業制作」をみんなで考えて、そして作り始めたもの。

 

 

それが、何と偶然にもそのとき私たちが作成していたものと同じ、「折鶴の壁画」だったそうです。

 

 

もちろん、戦時中なので紙も貴重でしたから、私たちが作っていたものよりだいぶ規模は小さいものだったそうです。


卒業式の数日前に東京に戻り、作ってきた鶴を学校で板に貼り付けて完成させる。


そんな段取りで母たちは東京に帰る日を心待ちにしながら鶴を折っていたそうです。

 

 

いよいよ母の卒業式が近づき、翌日には汽車に乗って東京に戻るという日になって、母は水疱瘡にかかってしまったそうです。

 


せまい汽車の中で他の子に感染してはいけないということで、母は置いて行かれることになりました。

 

 

「卒業式までには、きっと元気になって東京に来てね」

 


「梅ちゃんの折った鶴も絶対卒業制作の中に飾るからね」

 

 

『梅ちゃん』というのは母のことです。完成後に、まちがいなく母が折った鶴だと見せるためでしょうか、友達は母が折った鶴の1つに、母の名前を書いて見せたそうです。

 


そんな友達の優しさに、母は「絶対だよ」と泣きながら友達とそう約束して別れたそうです。

 

 

 

でも、その約束が果たされることはありませんでした。

 

 

クラスメイトが東京に帰った日の夜。

 

 

1945年3月10日、大規模な空襲が東京を焼け野原にしました。

 

 

・・・東京大空襲です。

 

1

 

 

東京に戻ったクラスメイトは、家族との再会を喜んだのも束の間、一人残らず全員が死んでしまったそうです・・・。

 

 

鶴は、母にとって、そんな悲しい思い出の象徴だったのです。だから母は鶴を折ることを拒んだのでしょう。

 

 


私は母に、改めて謝罪しました。

 

 

悲しいことを思い出させてしまって、本当にごめんなさいと。

 

 

しばらく2人で抱き合って泣いたあと、母は「ずっと胸に抱えてきたことを話したら少し気が楽になったよ」と言い、「1つだけ鶴を折らせてほしい」とつぶやきました。

 

何かふっきれたようなすがすがしい顔でした。

 

 

母は、真っ白な鶴を折り終わると、「名前を書いていいかい?」と聞きました。

 

 

滝川梅子

 

 

母は自分の名前を鶴に書くと、「ありがとう」と笑顔を浮かべ、寝室で眠りにつきました。

 

 

私は、この鶴を宝物にしようと自分の部屋に持っていきました。

 

 

 

 

そして、翌日。

 

 

・・・母が目覚めることはありませんでした。

 

 

永遠の眠りについたのです。

 


幸せそうな、どこかほほえんでいるようにも見える寝顔でした。

 

 

 

あのときは、本当に迷惑をかけましたね。

 

 

壁画も完成させなければいけない、卒業式も近い。

 

 

そんな時期に、私は母の葬儀などの関係で、1週間ほどお休みをいただきました。

 

 

 

他の先生や、当時の子どもたちが非常によく頑張ってくれたおかげで、私が休んでいる間に卒業制作は完成しました。

 

 

久しぶりに出勤した私は、その壮大な卒業制作の出来栄えにとても感動しました。

 

 

しみじみと隅から隅まで眺めていたとき、私は「あのときのたくさんの鶴」が使われていることに気づきました。

 


だれが作ったのか分からなかった、古い紙で折られたあのたくさんの鶴です。

 

 

それを見ていたとき、私はあることに気づき、細めていた目を大きく見開きました。

 

 

「あるはずのない鶴」がその中に飾られていたのです。

 

 

 

母が、亡くなる前日に折った鶴。

 

私の部屋にしまっておいたはずの「滝川梅子」と名前が書かれた鶴が、あの古い紙で折られた鶴の一角に使われていたのです。

 

 

 

このことについて、私はいろいろ考えました。

 

 

葬儀のとき、他の先生が来て自宅で作った鶴を学校に持って行ってもらったとき、母が折った鶴がまざってしまったのだろう。

 


そして、あの古い紙で折られた鶴はやはり子どもたちの誰かが持ってきてくれて、名乗り出るタイミングを逸したのだろう。

 

 

現実的に考えれば、その可能性が最も高いと思います。

 

 

でも、私はこう考えることにしました。

 

 

・・・母は、同級生と約束をしました。

 

 

「梅ちゃんの折った鶴も絶対卒業制作の中に飾るから」と。

 

 

あの悲しい出来事があってから、母は一度も鶴を折りませんでした。

 

そんな母が、数十年の時を経て、約束の鶴を折ったのです。

 

 

あの古い紙で折られた鶴は、きっと母のクラスメイトたちが折った鶴です。

 

 

空襲で焼けた?

 

なぜ教室に?

 

 

いいえ。私は、それでも母のクラスメイトたちが折った鶴だと信じます。

 

 

 

母は、大好きだった友達との約束を果たして、天国へと旅立っていったのです。

 

無題

 

※この話の人物名や学校名は仮名です。

 

 


 

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執筆者の紹介

西川 賢

西川 賢(Ken Nishikawa)

株式会社カレッジ代表取締役
学習塾カレッジ塾長

慶應義塾大学 通信課程 文学部 第1類在学中。
真面目なのかふざけているのか分からない、忖度ひかえめなピリ辛スパイスがちょっとくせになる「教科書が教えないリアル」は、塾長の優しさとおふざけと強い信念がつまったエッセイブログです。月に1回程度のアップでも、おかげさまで年間PV200万😊
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